「信じて、愛して、一緒に暮らそう」
南北統一のタイムテーブルと世界における在日同胞の地位
モルドバ復興支援協会 事務局長
南北統一支援事務所 講 師 沓澤正明
(本論文は2011年10月3日に脱稿し2012年3月1日に発表した)
はじめに
一緒に暮らしたいという思い
2011年8月31日毎日新聞のニュースUP欄に「在日女性、涙の旅立ち」という記事があった。「90歳を迎えた一人の在日コリアンの女性が今月上旬、77年間暮らした日本を後にし、朝鮮半島に帰った」と書かれている。北朝鮮に渡った息子に会いに数年に一度北朝鮮と日本を往来していたようである。朝鮮高級学校3年の時に北朝鮮に渡った息子が今は60歳。孫3人、ひ孫3人。「一緒に暮らしたい」[1]という思いが北朝鮮に渡らせたのである。北朝鮮は信じられないくらい貧しいかもしれないが、そこにも私たちと同じように暮らしている家族があり生活がある。
いつも在日同胞だった
私は以前から国際ボランティア「モルドバ復興支援協会」活動をしているが20年前までモルドバは旧ソ連の一部だった。1991年独立するまでモルドバは北朝鮮と同じように共産主義の国だった。家内が1994年モルドバ入国以来支援活動をしてきたがモルドバは東西に分かれた分断国家でもある。「沿ドニエストル戦争」の結果分断したのである。私たちのモルドバ支援活動はいつも困難なことばかりだった。理解したり励ましてくれたりする人はほとんどいなかった。ところが黙って私たちの活動に手を差し伸べてくれる人がいつもいた。孤独になってぼんやりしている時、「どうしたんだい」と友達が声をかけてくれるのと同じような、うしろからそっと包み込んでくれるような、そんな感じの人がいた。あとで分かってみるとそういう人たちはいつも在日同胞[2]だった。一人や二人ではなかった。
食事を用意してくれたり、そっとお金を包んでくれたり、何も言わないで少しためらったりしながら。でも私が目に一杯涙を浮かべるだけで言葉は必要なかった。あるとき在日同胞のご婦人から「沓澤さん、お仕事をやめて南北統一運動をしてください」と言われた。その時の私の心は澄みきった青い空のようだった。「そうか、仕事をやめて南北統一に人生を捧げよう」と思った。日本人である私が在日同胞ということばを使うのは表現がおかしいという人もいたが私にとっては在日同胞ということばはとてもいいと思う。
南北統一支援事務所設立
25年勤めた会社に退職願を出して2002年9月末で仕事を辞めた。2002年11月22日に「南北統一支援事務所」[3]を一人で立ち上げた。数人のご婦人がお祝いしてくれた。
収入が無くなってたちまち生活は困窮したがこの9年間本当に有意義だった。最初のころ一人の会社を経営している男性の在日同胞から「沓澤さん、南北統一はあと10年待ってください」と言われた。私はその男性をよく知っていたし、会社の事務所にも何度も訪問して話す機会が多かったので、きっと一番喜んでくれると思っていたがそうではなかったのである。そのあとずっと在日同胞に会っても何を話していいのかわからないくらい私はすっかり落ち込んでしまったが、それも今となってはありがたい言葉である。2012年はその10年目である。
こんなこともあった。私に「南北統一運動をしてください」と言ったご婦人からある日、「どうして南北統一運動をはじめたのですか」と聞かれた。意外な質問だったので内心驚いたが私にとっては嬉しい質問だった。私はあなたが勧めてくれたから始めたのですよといつか伝えようと思っていた。「それは…在日同胞であるあなたが…南北統一運動を…やって欲しい…と言ったから」と言おうとすると涙がこみ上げてきて仕方がなかった。その人は「いや、私は言ってない」とあわてた様子だった。無意識に心の中の思いをつぶやくように言っただけだったのかもしれない。私はその在日同胞のことばがなければ会社を辞めなかったし、南北統一に人生を捧げようとは思わなかった。
そのようなことがあって在日同胞は私にとってはとてもいい人なのである。
二つの事実
私は2002年10月17日夕刊の新聞紙面を忘れることができない。北朝鮮から拉致被害者5人が帰国して日本中が喜んでいる時、同じ新聞の第1面[4]で北朝鮮が秘密裏に核開発をしていると米政府が発表したのである。いいことと悪いことが同時に起ったのである。1994年米朝枠組み合意以来、北朝鮮は核開発をしていないと信じられていた。しかし、そうではなかった。北朝鮮は密かに核開発を続けていたのである。
情報が混乱していた。この時期になぜ、米政府はこのような発表をするのかと不信したのは私だけではないと思う。私はその報道を素直には受け入れられなかった。何を意味しているのか理解できなかった。しかし、本当に混乱したのは私ではなく在日同胞だった。特に在日朝鮮人は何を信じていいのかわからないくらい動揺していた。在日朝鮮人が動揺した理由は二つあった。第一は北朝鮮が日本人を拉致していたことを認め金正日総書記が謝罪したことである。第二は核開発をしていることを認めたことである。
この二つの事実を北朝鮮が公式に認めて率直に謝罪[5]した。このことによって在日朝鮮人がどれほど追い詰められたかはかり知ることはできない。日本人を拉致しなくても日本語教師になれるような日本人妻や教授たちが北朝鮮にたくさん渡っていた。それが、北朝鮮には日本人を拉致する必要性はないと在日朝鮮人が信じる根拠だった。ところがそうではなかった。それがわかると、在日朝鮮人の約半分が北朝鮮に対して不信するようになったのである。
さらに悪いことに日本人による在日同胞子女へのいじめが起こった。民族衣装で通学する在日同胞子女は石を投げられたりカッターナイフで服を切られて身の危険を感じた。本名を隠して日本人名を使おうとした。
対話と安全保障
北朝鮮の核開発がわかると日本政府はどこの国よりも早く北朝鮮に経済制裁を課した。安倍晋三が首相になると北朝鮮との外交に「対話」[6]はいらないと言って「圧力」だけの外交を展開した。外交に必要なのは「対話」であって「対話」のない外交など存在しない。日本政府は北朝鮮との対話のパイプを切ってしまったのでとうとう北朝鮮が何を考えているのか全然わからなくなってしまった。[7]
外交は「対話」だけでも成功しない。安全保障体制があって初めて外交は成功する。安全保障体制があるから対話は相手国との折衝となるのであって、安全保障体制もなく国家間で「対話」すると相手国への隷属となってしまう可能性がある。対話だけで自国の安全が保障されるわけではない。安全保障は圧力ではない。安全保障は守りであり、対話は攻め[8]である。
しかし、安倍氏は北朝鮮と全然対話をしないので拉致問題は完全に停滞し、茫然自失、病気になり首相の座を降りた。拉致問題は帰国した被害者5人とその家族が帰国したことが小泉政権最大の功績として賞賛されたが安倍政権では進展しなかった。北朝鮮は「解決済み」を繰り返して言うだけだった。経済制裁という圧力をかけ続けることが外交と言えるのだろうか。
1991年日本の敗北
小泉元首相が政治生命をかけてやろうとした「日朝国交正常化」[9]と同じことを今、アメリカがやろうとしている。日朝国交正常化は頓挫したが、米朝国交正常化は日本では誰も関心を示さないうちにどんどん進展している。気がついた時には日本の外交敗北が明白になるのではないだろうか。アメリカは北朝鮮と外交しているが日本は外交していない。日本は北朝鮮から相手にされてもいない。このままでは日本は朝鮮半島問題で取り残されてしまうと私は危惧している。
1991年湾岸戦争の時日本は大蔵省と外務省が二元外交をやった。その結果日本は外交で敗北した。手嶋龍一がそれを『1991年日本の敗北』で詳細に書いた。日本は130億ドル(1兆1700億円)という巨額の経済支援をしたにもかかわらず日本の功績は無視されたのである。イラク侵略から解放されたクウェート政府は30ヵ国の国名をあげて謝意を表し全米の有力紙に全面広告を掲載したがそのリストに日本「JAPAN」はなかった。クウェートの自由回復のために日本は巨額な経済支援をしたにもかかわらずクウェート国民はそれを知らなかった[10]。それと同じことがまた繰り返される。日本が外交しないまま推移している間に米朝平和協定が締結され、米朝だけが国交正常化し同時に軍事境界線が解除され、南北の平和統一が果たされたと仮定する。日本は再び米国から南北統一のための巨額な経済支援(少なくとも3兆円以上)を迫られても拒否できないことは明白である。しかも悪いことに日本の功績は北朝鮮から評価されない。「日本の敗北」は2度繰り返されるのである。
2012年を南北統一の年に
「日本の敗北」は国益を損なうことになる。そうなってはいけないと思うので南北の平和統一方式を考察し、日本の時・位置・方向性[11]を提示したい。
そうすることによって2012年を南北統一の年にしたい。
ここに、南北の平和統一における在日同胞の役割が何なのかを論じることは、同時に日本の役割は何なのかを知ることでもある。それは在日同胞のためだけでなく日本人のためでもある。南北の平和統一の統一とは「一緒に暮らす」[12]という意味である。一緒に暮らすとはどういうことなのか。そこから書き始めてみたい。
第1章 一緒に暮らす
第1節 統一とは
統一とは一緒に暮らすことである。北と南が一緒に暮らすことが南北統一である。共生ということばがある。共生の定義が「一緒に暮らす」である。共生ということばは共に生きるなどと訳されるが、それだと意味不明になる。共生ということばが文中に出てきたら「一緒に暮らす」と読み替えるだけで意味が明確に伝わってくる。例えば文化人類学では多文化共生という言葉をキーワードとして社会を説明しようとする。その場合も多くの文化が「一緒に暮らす」ことを表示している。つまり共生と統一は「一緒に暮らす」という意味で用いられている。
共同の家
ただ政治学では多文化共生という言葉は使わない。統一という言葉を使うのである。しかし統一を「一緒に暮らす」と定義する研究者はいない。「欧州共同の家」とか「東北アジア共同の家」と表現する研究者[1]がいる。家は一緒に暮らすところである。「国家」と表現するくらいだから超国家的機構を「共同の家」という絵に描いたようなイメージがいいのではないか。家は家庭や家族に通じる。国家や超国家機構は家庭や家族の拡大したものと考えることができる。個人から家族、氏族(宗族)、民族、国家、世界、宇宙というように人間の存在界は7段階になっていて個人も実に家に例えられて表現されることはよくある。例えば体は心の住む家であるというような表現がある。心は無形であるが有形の体に住んでいると表現できるのと同じである。人間は小宇宙であるとも表現される。
「individual」は個人「-dividual」は分人である[2]。人間は人格として統合されているので分けることはできないが分人として分けて考えてそれらを統合したものが個人であると考えることはできるのである。個人というのは分人が一緒に暮らす家なのである。
第2節 南北統一国
日韓歴史共同研究報告書[3]
朝鮮半島も南北共同の家なのである。それが1953年朝鮮戦争休戦協定で分断が固定されたまま58年間統一されていない。朝鮮戦争のとき北から南に避難した1000万人の離散家族がいて家族の再会は悲願であるばかりでなく緊急の課題である。
日本は1905年日韓保護条約で韓国から外交権、警察権を取り上げ1910年日韓併合条約で韓国を植民地とした。韓国は日本に40年間支配された。土地が収容され、教育権が奪われ、言語が奪われ、名前も奪われ最後に国籍も奪われた。国家が消滅した。
日韓歴史共同研究報告書によると、日本の研究者は日本が韓国を植民地化したことは日韓保護条約と日韓併合条約という条約に基づいてなされたことなので合法であると主張し、韓国の研究者は武力を背景に強要された日韓保護条約と日韓併合条約は無効であると主張している[4]。
日本は日露戦争でロシアと戦争していたのであって韓国と戦争していたわけではない。国際法ではたとえ武力を背景に強要した条約であっても先勝国が敗戦国に強要した条約は合法であるとしているが韓国は敗戦国ではない。私は戦争もしていない韓国に武力を背景に強要した二つの条約は合法とは言えないと思う。
人権を蹂躙した罪
たとえ合法であったとしても罪もない韓国人の人権を蹂躙したことは日本人の罪であり、そういう歴史認識を日本人が持てないということは「自覚していない罪」であって、自覚していない罪はある種の原罪[5]として日本人の属性となっている。これを清算しない限り日本人の未来は危うい。私は南北統一のために日本人が在日同胞と一緒に汗を流すことがこの原罪を清算する一番いい方法なのではないのか思う。
ここで日本が韓国を支配した40年間という時間的長さを考察したい。韓国解放は1945年であり本来ならば解放ではなく独立でなければならなかった。38度線から以南は米国が保護国とし、以北はソ連が保護国とした。3年後の1948年韓国と北朝鮮はそれぞれ独立国として政府樹立を宣言した。1950年朝鮮戦争勃発。1953年休戦協定。事実上の南北分断は1945年から今日まで66年間続いている。日本が支配していた40年間よりもはるかに長い期間韓国は分断状態に置かれている。そればかりか、日本支配下では自由な移動ができないばかりか強制連行があったわけだから朝鮮半島は106年間も悲哀が続いているのである。
南北統一国は聖地
こういう悲哀な状態に長い間置かれている朝鮮半島をどう表現するべきだろうか。南北が統一されれば南北統一国である。統一されても内容が重要である。平和統一でなければならない。平和な南北統一国でなければならない。それは表現を代えて言えば聖地(ホーリーグランド)である。オスカー・ワイルド[6]は『獄中記』で
悲哀のあるところには聖地がある。[7]
いつか人々はこの意味を身にしみて悟るであろう。
それを悟らないかぎり
人生においては全く何事も知ることができない。
と表現した。平和な南北統一国はありとあらゆる悲哀を通過した聖地と呼ばれるべきところである。この地球上にはじめて訪れる聖地が平和な南北統一国でなければならない。
第2章 南北の平和統一方式の考察
第1節 統一方式
分断国家
世界には様々な分断国家が存在する。かつてアメリカは南北に分断されていた時期がある。南北戦争(1861年から1865年)によって武力統一したのである。そのほか、ベトナム、ドイツの統一はよく知られている。キプロスは国連が斡旋して統一選挙[1]で南北統一しようとした。キプロスは明らかに分断国家である。私が支援しているモルドバも実は分断国家である。モルドバには主権の及ばない沿ドニエストル[共和国][2]という地域がある。中国と台湾も分断国家である。
朝鮮半島の統一方式としては次に示す統一方式が考えられる。
①連邦制方式
北朝鮮が主張している方式。1民族2国家1政府。統一国の大統領は選挙によって選ばれる。国連などの選挙監視団が南北に配置され公平な選挙が保証される。北朝鮮から大掛かりな選挙運動員が韓国にきて自由に選挙活動することも保証される。韓国から大掛かりな選挙運動員が北朝鮮に行って自由に選挙活動することも保証される。朝鮮戦争の時に北から南に避難した離散家族が1000万人いるわけだから離散家族と北朝鮮の人口を足した人数と、韓国から離散家族を引いた人数がちょうど南北同じくらいになるので必ずしも南が有利とは言えない。北朝鮮は必ず南北統一選挙をしようと提案してくる。選挙は平和な方法なので韓国は拒否する理由はない。
北朝鮮の南北統一のタイムテーブルは決まっていて、最初は米朝国交正常化をして軍事境界線の撤廃、次に日朝国交正常化して3兆円以上の戦後賠償金を獲得し、その上で潤沢な選挙資金を使って訓練された選挙運動員に徹底した運動をさせる。特に韓国にいる離散家族1000万人には暖かいもてなしをする。主体思想で徹底的に主体的な南北統一を訴える。
連邦制方式で国家統一に成功したアメリカという前例もあり現実性があるとされる。連邦制で全然うまくいっていない国もある。ロシアと中国であるが特に中国は旧ソ連崩壊と同じくらい民族問題・宗教問題が噴出している。中国はバラバラに崩壊すかもしれない。
②国家連合方式
韓国が主張している方式。1民族2国家2政府。現在の体制をそのまま保証するわけだから北朝鮮の体制は変わらない。政府と政府の定例会議化、軍隊と軍隊の定例会議化、民間人交流、宗教人交流、鉄道連結、道路連結、通信連結、貿易の活発化、港湾や飛行場、ダム、病院などインフラ整備、食料や衣類など経済格差をなくすあらゆる援助を南から北にすることになる。韓国ではこれを「事実上の統一」[3]政策と呼んでいる。金大中元大統領と盧武鉉前大統領が強力に推進した。事実上の統一は本当の統一ではない。李明博大統領はこのような一方的な支援に終始する統一方式を否定している。「法律上の統一」を実現するとしたら南北統一選挙しかないだろう。
③武力統一方式
アメリカやベトナムで実際にあった統一方式。武力で勝った方の政府が政権を握る。負けた方の政府は解体される。血が流されるので平和統一とは言わない[4]。
④吸収統一方式
東ドイツが共産主義ではやっていけなくなり、オーストリアのブルゲンラント州の国境を開放したことからハンガリーに集まっていた東ドイツのマラソンランナー約1000人がオーストリアを経由して西ドイツに逃げた。これは「凡ヨーロッパピクニック」[5]と呼ばれた。それがベルリンの壁崩壊につながり東ドイツは西ドイツに吸収統一された。西ドイツはまたたくまに経済混乱に陥った。それを目撃した韓国は吸収統一を断念した。
⑤国連統治方式
北朝鮮が経済混乱に陥り政府が崩壊した場合韓国は吸収統一をあきらめるしかない。もはや国連統治しかない。これは悪夢としか言いようがない。崩壊は統一とは言わない[6]。
第2節 朝鮮戦争休戦協定が想定している南北の平和統一
なぜ、北朝鮮は米朝対話を急ぐのか。それは朝鮮戦争休戦協定に書いてある。休戦協定は北朝鮮と米国との間で締結された協定であるからだ。北朝鮮はアメリカと平和協定を締結する以外に戦争状態から解放されることは永久にない。北朝鮮は休戦協定の後すぐにアメリカと平和交渉をやって平和協定を締結することになっていた。その平和協定までの手順を書いているのが休戦協定なのである。これには中国も韓国も関与できない。中国は義勇軍[7]として朝鮮戦争に参加しただけで人民解放軍は関与していない。また、韓国は休戦協定の締結に反対して最後まで武力統一を主張していたのである。今となっては韓国が参加できない平和協定に無念さが残るがどうすることもできない。
北朝鮮は米朝平和協定を締結することによって南北統一の主体に立てると考えていることは言うまでもない。前クリントン大統領はそれでもいいと考えて核問題解決のためにという理由で「1994年米朝枠組み合意」[8]を作った。そして一気に米朝平和協定までいけると北朝鮮は考えたに違いない。しかしクリントンは北朝鮮の意図を間違って受けとめた。北朝鮮は核開発を停止すると言っただけで実際には核開発を停止していなかったのである。(2002年10月16日米政府が公表。)クリントン政権は北朝鮮を信じていただけで検証していなかったのである。
ブッシュ大統領が就任するとクリントンのやり方を全部ひっくり返した。朝鮮半島の東西南北に隣接する4大国を含む日本、韓国、(アジア太平洋国家)米国、北朝鮮、中国、ロシアが参加する「6ヵ国協議」をスタートさせた。日本にも意見をいう席が用意された。そして北朝鮮との交渉は必ず検証されることになった。北朝鮮はロジックだけでは米朝平和協定の締結は不可能であることを身にしみて知った。それはオバマ政権でも踏襲されている。
米政府は「北朝鮮がテロ支援国指定から解除されること」が米朝平和協定の条件であると言い続けた。ブッシュ政権で北朝鮮は2008年10月にテロ支援国指定から解除され、2009年、2010年は、「テロに対する協力が不十分な国」に分類されていた。オバマ政権が検証し続けた結果2011年8月18日米国は初めてテロ報告書から北朝鮮に関する記述を完全に削除した[9]。日本では報道されなかった。みんな息をひそめている。米朝平和協定の障害はなくなった。いつ締結されてもおかしくない状況である。
第3節 独立性と統一性
存在には独立性と統一性という両側面がある
独立と統一は実はそれほど大きな違いはないのである。存在には独立性と統一性という両面性があるのである。宇宙や人間界、自然界は個体目的と全体目的という二重目的をもつ連体[10]として存在している。個体目的は独立性であり全体目的は統一性である。存在するものはすべて統一性だけでも存在できないし、独立性だけでも存在できないのである。独立性と統一性の両方があって初めて存在が可能なのである。
スターリンと毛沢東の説明
独立と統一に関してスターリンと毛沢東が言及しているので考察してみたい。
①スターリンは次のように説明している[11]。
・「発展は、対立物の『闘争』である」(マルクス主義の弁証法的方法の基本的特徴)
②毛沢東は次のように説明している[12]。
・「実践は真理の基準である」
・スターリンは言っている。「理論は、革命的実践と結びつかなければ、空虚な理論となり……実践は、革命的な理論がその道を照らさなければ、盲目的実践となる。」
・われわれは革命の隊伍のなかの頑固派に反対する。彼らの思想は…右翼日和見主義としてあらわれた。
・われわれはまた、「左」翼空論主義にも反対する。
・矛盾の諸側面の同一性と闘争性
・レーニンは言っている。「対立物の統一(一致、同一性、均衡)は、条件的、一時的、経過的、相対的である。たがいに排除しあう対立物の闘争は発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」
考察
存在の独立性と統一性を毛沢東は闘争性と同一性と言っている。存在界には独立している自然物は無数にあるが闘争しているわけではない。独立を闘争と恣意的に表現したのが弁証法的唯物論の特徴である。しかも統一を恣意的に同一性と表現するのはあたかも「統一は条件的、一時的、経過的、相対的である」と強調したいからなのである。自然界はそうなっていないのに弁証法的唯物論を正当化するために事実に反してそのように表現したのである。
たとえば南北統一は条件的ではないし、一時的ではないし、経過的ではないし、相対的ではない。統一は永遠的、唯一的、普遍的、絶対的である。それが分かったから金正日総書記は「共産主義では把握できない」という理由で共産主義という文言を憲法から削除(2009年9月30日毎日新聞)したのではなかったか。ゴルバチョフ総書記自らソ連共産党を解散したように金正日総書記自ら労働党を解散してもおかしくはない。
真理の基準は実践ではない。真理の基準は実証である。共産主義は実践する人間の判断に真理の基準を任せてしまった。その結果レーニン、スターリン、毛沢東などの指導者は右の人には右翼日和見主義という罪名を言い渡し、左の人には左翼冒険主義という罪名を言い渡して次々に粛清していったのである。共産主義の真理の基準は常に変遷する。弁証法的唯物論は罪深いと思う。真理の基準は変遷してはならないことは言うまでもない。
ここでは伊藤憲一[13]が『地平線を超えてインターナショナル・ナショナリストの視点から』(三田出版会1993年)の「第2節 分裂と統合の国際政治」で「分裂と統合の統一的見解」として考察していることを指摘したい。
第4節 独立と統一の事例
①アメリカの独立と統一
アメリカは1776年に独立宣言してからイギリスと4年間戦争した。そのあと南北戦争をしてリンカーン大統領の時に統一を勝ち取ったのである。その時の様子は『風と共に去りぬ』[14]で詳しく表現されている。アメリカは独立と統一を経験している。
②台湾の独立と統一
台湾は「独立でもなく統一でもない」[15]と言っている。中国は「事実上の統一」さえ認められていれば現状維持でかまわないと考えている。ただ、台湾の「法律上の独立」は許容できないと考えている。台湾は「事実上の独立」の現状維持ができればそれでいいのである。
③ヨーロッパの独立と統一
ヨーロッパ各国は欧州連合EU誕生によって国境警備を撤廃した。中世神本主義時代のヨーロッパに国境はなかった。中世においてはもし国家間の問題があったらローマ法王庁から使節が派遣されて問題を解決していたのである。
中世という時代区分はフランク王国のカール大帝がローマ法王から戴冠された800年から1517年までである。中世神本主義時代のローマ法王は絶対であり国王は相対的な存在だった。キリスト教と国家は一体だった。しかし、中世神本主義は不完全だったのでローマ法王庁は腐敗堕落した。1517年ルターの宗教改革が成功するとローマ法王の絶対性は失われ相対的存在になった。以後、130年間の新旧キリスト教の宗教戦争のあと1648年ウェストファリア条約によって主権国家が誕生したのである。1789年フランス革命によって国民国家が誕生してヨーロッパはバラバラになった。近代国家は「戦争をする権利」を持った。1914年第1次世界大戦が勃発し1918年終了した。第1次世界大戦によってヨーロッパは没落した。
近代の時代区分は1517年から1918年までの約400年間である。人類は国民国家が世界大戦の原因となったことを学んだ。1918年が『歴史の終わり』[16]だった。世界は国民国家という近代的な概念を否定して国境を撤廃する方法を考えた。それが超国家的な機構としての国際連盟・国際連合UNであり欧州連合EUだった。
それはまさしく中世への回帰であり、そのような歴史の時代区分を新しい中世とか第二次中世、ネオ中世などと研究者たちは表現した[17]。
③モルドバ人の独立と統一
私が支援しているモルドバ共和国について論文集「軍縮問題資料」2010年6月号に『モルドバ人の独立と統一』[18]を寄稿した。モルドバは1991年独立したがモルドバ国民の歴史がないためにモルドバ人という意識が希薄でラテン民族・スラブ民族・アラブ民族がそれぞれ自分の文化を保持したまま一緒に暮らしていると報告した。
④ブルゲンラント州の独立と統一
オーストリア・ハンガリー帝国はかつて統一されていた時代もあったがオーストリアとハンガリーには違う民族が住んでいる。ブルゲンラント州はかつてハンガリー領だったが今はオーストリア領である。そこは戦争によっていつも悲哀を味わった。その国境では多民族が一緒に暮らす方法として子供の交換という慣行がある[19]。
⑤アンドラ公国の独立と統一
2011年上映された『アンダルシア』[20]という映画の舞台になったのがフランスとスペインに挟まれたピレネー山脈のなかにあるアンドラ公国である。フランス大統領とスペインのウルヘル司教を国家元首としている。これを独立と言ってもいいし、統一といってもいい。
第5節 38度線上の独立と統一
米朝国交正常化が実現したら軍事境界線は解消される。国境のような境界線になる。アメリカは間違いなく北朝鮮に大使館を出す。もちろん北朝鮮もアメリカに大使館を出す。きっと、アメリカは巨大な大使館を出すだろう。数百人単位の大使館員を派遣する。それも大学院を優秀な成績で卒業したあらゆる専門分野の研究者を出すだろう。研究者の中にはアメリカの研究機関にいる同胞もたくさん含まれているに違いない。マッカーサー司令官が日本占領したときに日本研究者がすでに2000人[21]いたのである。数百人の研究者が北朝鮮に派遣されることに驚く必要はないのである。
その時、北朝鮮は当然統一を主張する。しかも全国民が主体思想で武装されているから主体的に統一すると主張するに決まっている。主体思想ばかりでなく先軍思想があって全国民が軍事的な規律で組織化されている。北朝鮮はもうとっくにマルクス・レーニン主義という文言を憲法から削除(1992年憲法改訂)しているし、近年、共産主義という言葉まで憲法から削除しているのである。金正日総書記が「共産主義では把握できない」(2009年9月30日毎日新聞)という理由で削除したのである。
では、38度線という境界線を撤廃できるだろうか。そこは線ではなく幅4キロメートルもある帯状の大きな自然の森のようなところであり渡り鳥や野鳥が自由に飛び交うところである。
これが自由に往来できるように解放されるのだろうか。38度線が解放されてヒト・モノ・カネが流れたら中国・ロシアはもちろんアジア・ヨーロッパに自由に連結されるのだから韓国の未来は限りなく広く豊かに発展することは間違いない[22]。北朝鮮もその経済の恩恵をまともに受けるのである。先ごろロシアのガスパイプラインがいよいよ北朝鮮を経由して韓国に連結されると何度も報道されたが朝鮮半島は活発に動いている。
そういうことを韓国は統一として受けとめるだろうか、独立として受けとめるだろうか。私はそれを独立と言ってもいいし、統一と言ってもいいという状態に収まるのではないかと考える。北朝鮮はこれが体制保証された統一だといい、南はこれが一番いい統一の方法だと言うかもしれない。いずれにしても韓国はドイツのような吸収統一だけは避けたいに違いない。独立性を維持した緩やかな統一がいいのではないだろうか。
第3章 南北統一のタイムテーブル
第1節 1868年から1988まで120年間の日本の経済的国運
近代の時代区分
近代の時代区分を考えてみたい。日本の場合1868年の明治維新が近代の始まりである。富国強兵、教育勅語に見られるように日本は国民教育を徹底して国民国家を作り上げた。国民国家は国民が国家のために生きることを大義[1]と考え、国家は国益を守るため「戦争をする権利」があるとしている。かくして『日本の戦争』[2]は日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦となったが全て日本の先制攻撃で戦争は始まった。そして1945年8月15日敗戦した。敗戦してもなお日本は経済的国運に恵まれた。日本の経済的国運は120年間で明治・大正・昭和という3代の天皇に国運があった。明治維新から120年は1988年である。その年はソウルオリンピックの年である。1989年1月7日昭和天皇が崩御した。
旧約聖書に出てくるサウル王・ダビデ王・ソロモン王3代120年
これは旧約聖書に出てくるサウル王・ダビデ王・ソロモン王というイスラエル国家3代120年と同じである。日本の120年間の経済的国運は1988年で終わった。この経済的国運はなんのために日本に賦与されたか。日本に多くの在日同胞が一緒に暮らしていたことが国運の理由なのではないかと考える。日本の経済的発展は国運がよかったとしか言いようがない。
第2節 1886年から2006年まで120年間の韓国の精神的国運
朝鮮王朝自らの意志
韓国の場合1886年朝仏修交通商条約の締結が近代の始まりであるとここでは定義する。それまで朝鮮王朝は儒教を国教としてきた。それを否定してキリスト教を公認し教育立国宣言をしたのが1886年だからである。朝鮮王朝は日本をはじめ中国、西欧列強から介入されてはいたが朝鮮王朝は自らの意思で国教としての儒教を否定し、それまで約100年間にわたり迫害してきたキリスト教を公認したのが朝仏修交通商条約なのである。それまで朝鮮王朝は1866年から1872年の6年間でカトリック教迫害令を発令して9人のフランス人宣教師(それ以前に3人累計12人)と8000人のカトリック教徒を処刑した[3]。アメリカは1882年に朝鮮王朝と米朝修交通商条約を結んでいたが宗教条項は一切含まれていなかった。アメリカは宣教師を派遣はしたが宣教活動をさせたわけではなかった。「医療と教育」分野で国際ボランティア活動をやっていた。朝鮮王朝にとってはこれが非常によかった。西洋医学は合理的に病気を治療した。朝鮮王朝はそれを体験した。そしてもはや儒教の学校制度は朝鮮王朝打倒の活動拠点になっていたのでそのような学校制度を否定せざるを得なかった。アメリカの宣教師がもたらす学校制度を取り入れるしか韓国が近代化する道はなかったのである。
1886年は「ミラノの勅令」と哲学的同時性
そのようにして、1886年フランスとの修交通商条約はローマ帝国におけるミラノの勅令と哲学的同時性がある「キリスト教公認」[4]となったことを強調したい。キリスト教公認とは新旧キリスト教の公認であってキリスト教の宣教師は朝鮮半島のどこででも自由に宣教活動ができることを保証するものである。もはや韓国では宣教師が宣教を理由に拘束されたり処刑されたりすることはなかった。1905年日韓保護条約締結までの20年間に韓国の精神的国運は儒教からキリスト教に置き換わったのである。ただ儒教は国教としての絶対性は否定されたが韓国の伝統文化としては残されたのである。否定されても否定しきれないので残るのが文化である。韓国には文明としてのキリスト教がアメリカから韓国全土に伝播したと考えられる。
朝鮮王朝は1886年アメリカから3人の宣教師を招聘して「育英」という名前の英才教育をする国立大学を創設して英語教育を初めアメリカの教育制度を取り入れたのである。これが教育立国宣言に相当する。その大学を卒業した第1期生が近代国家韓国の初代政府の中枢となった。さらに1882年から派遣されたアメリカの宣教師たちは学校創設準備期間を経て1886年いっせいに学校を創設した。それが今日の韓国の著名なる大学の創設となった。現在韓国の宗教はキリスト教45%、仏教45%その他10%である。圧倒的なキリスト教国家の様相を見せていると言えないだろうか。
韓国は経済的には恵まれなかったが、精神的国運は120年間あった。その間には日帝40年迫害時代があった。そして韓国近代化から120年となる2006年が訪れた。
第3節 2006年2007年は歴史的な喜ばしい年
1988年日本の国運は韓国の国運に連結された
2006年、2007年は歴史的な喜ばしい年となった。そのときから韓国には経済的国運が訪れた。
1988年世界の若者の祭典ソウルオリンピックの時に日本の国運は韓国の国運に連結された。その年から日本人の若い女性たちが信じられないくらい韓国に行くようになり韓国人と結婚して一緒に暮らし始めたのである。そういう統計がある。韓国の農村や漁村で多くの日本人女性が結婚した。そこは韓国の伝統文化としての儒教が残っているところである。韓国人女性がなかなか結婚で行きたくないところに日本人女性が喜んで入っていくという現象が起こったのである。
10年で3倍。増え続ける韓国居住の日本人女性
ジャーナリスト黒田勝弘が「在韓日本人の急増―不安イメージが後退」で次のように報告している。「ところで韓国に日本人は何人くらい住んでいるのだろう。旅行者を除く居住者だが、ソウルの日本大使館によると2002年現在、韓国全体で約17000人となっている。ところが1990年わずか5800人だった。10年そこそこで3倍に増えたことになる。この急増の原因が…日本人女性だと言うのだ。年によっては1000人、2000人単位で日本人女性が住み着き現在に至るという。」[5]
第4節 『最強!韓国』『「世界の中心」踏み出す韓国』
韓国を追いかける日本
それからさらに約10年近く過ぎている。ソウルオリンピックばかりでなくワールドカップ・サッカー、「冬のソナタ」以来の信じられないほどの韓流ブームが巻き起こっている。ついに毎日新聞社は週刊エコノミストで『最強!韓国』を特集した。(2010年4月13日)
2011年9月6日神戸総合運動公園の「ユニバー記念競技場」で「ワンコリアカップ・サッカー大会」が開催された。そこは45000人収容できる大きな競技場である。平日だというのにすごい入場者で半分とは言えなくても2万人近い観客だったと思われる。午後4時から7時まで。最初は日韓中の芸能人サッカーだった。韓流ファンにとってはたまらない様子でサッカーが始まる前からサインを求めて騒いでいた。後半は在日韓国社会人チームと在日朝鮮社会人チームの対戦だった。私はサッカーのことはわからないが若い人からお年寄りまで楽しんでいたし、何といってもスポーツで南北の若者が汗を流してお互いに健闘をたたえ合っているのは清々しいし、いよいよ在日同胞が一緒に喜んだり励ましたりできるのだなあと感慨深く思った。
木村幹(神戸大学大学院教授)が『「世界の中心」踏み出す韓国』(2010年11月11日毎日新聞)を書いた。夫人は在日同胞である。
そればかりでなく、その前日に同じく毎日新聞で潮田道夫(毎日新聞編集委員)が『韓国を追いかけて』で「サムスンは2009年の営業利益は8700億円でパナソニック、ソニーなど日本勢9社を合計してもこれにまったく及ばない。…現代自動車の世界販売台数はホンダを上回る。…環太平洋パートナーシップ(TPP)は自由貿易協定(FTA)で韓国に遅れをとってしまったのを一気に挽回しようという試みだ。…原発や新幹線を売り込むため…「オールジャパン」チームを組んだ。為替介入。…法人税値下げ問題。これも韓国対策と言ってよい。…いつの間にか日本は韓国の背中を追いかける国になってしまっている。いったいどこが間違ったのだろう。」と書いている。
日朝国交正常化と拉致問題
姜尚中(カンサンジュン・東大教授)は『日朝関係の克服』(2003年5月)を発表した。夫人は日本人である。姜尚中は日朝国交正常化すれば日朝間の困難な問題は解決すると主張している。彼の主張は現在進行している現実が証明している。拉致問題は北朝鮮に調査を任せるのではなく、日朝国交正常化して日本の警察が北朝鮮に行って納得できるまで調査しなければいつまでたっても解決できないだろう。
南北統一のタイムテーブルはすでに終章なのである。
第4章 世界における在日同胞の地位
韓国の人口5006.2万人、共和国の人口2405万人、朝鮮半島の人口の合計約7400万人である。
在外同胞は697.5万人いてそのうち中国248.9万人、米国210.2万人、日本91.3万人(帰化した人を含む)3ヵ国合計550.4万人である。
これに対して在外日本人は中国12.8万人、米国37.5万人、韓国2.3万人、3ヵ国合計52.6万人であり、在外日本人は在外同胞の10分の1程度であることがわかる。
そのほかの地域の同胞はロシア22.2万人、ウズベキスタン17.6万人、カザフスタン10.4万人、キルギス1.7万人、カナダ22.3万人、オーストラリア12.6万人、フィリピン11.5万人。(『ハングルの誕生』野間秀樹2010年平凡社新書から)
ここに在外同胞をもう少し詳細に知って、そのあと在日同胞の世界における地位を考えてみたい。
第1節 サハリン残留朝鮮人
在日同胞に会うたびに「どうしよう」
1948年私は北海道の上富良野町で生まれた。父は結婚式を挙げるとすぐに軍隊に入った。旭川駐屯地からサハリンの警備に出征した。実家にはその頃のサハリンでの写真がある。ロシア人娘たちと一緒に若い軍服姿の父が写真に収まったりしている。実にのどかな感じだ。父は戦争になる前に帰ってきた。サハリンでは一緒に働いた在日同胞がいたことを少しだけ父が話してくれた。子供心にその言葉がいつまでも残った。「(在日同胞は)あまり意欲が感じられなかったよ」とだけポツリと…。父が病気で死んだあともサハリンの同胞がどうなったか気になった。いつまでも気になった。軍隊で父は同胞たちと仲良くしていただろうか。もしいじめたりしていたらどうしようと思った。そして私は仕事で関西にきて在日同胞たちと会う機会がめっきり増えてきた。在日同胞に会うたびに「どうしよう」という気持ちがだんだん大きくなってわけもなく何度も涙があふれた。
ロシアをフィールドとして研究している藤原潤子[1]がサハリン残留朝鮮人についての研究文献がいくつもあることを教えてくれた。その文献リストを見て、私はこれで疑問が解けると思っただけでわけもなく号泣した。そしてサハリン残留朝鮮人に関する本を少し読んだだけで気持ちが楽になった。父が在日同胞をいじめたりする理由はどこにもないと考えることができるようになった。でもなぜ在日同胞はあまり意欲が感じられないなどと言ったのか疑問は解けなかった。私の父は若いときは大工だった。軍隊ではなんの地位もなかったと思う。ただ、雪中行軍で大砲を運ぶのが難しいことを知って、父はスキーで大砲を運べるように、方向転換やブレーキをできるように改良したという理由で20人程度の小隊の小隊長に抜擢された。記念写真があるが丸いメガネをした優しそうな若い父が真ん中に座っているだけである。その写真の小隊の中に在日同胞がいたのではないだろうか。
遺棄されたサハリン残留朝鮮人
藤原から『追跡!あるサハリン残留朝鮮人の生涯』(片山通夫著)という本を勧められた。 片山通夫はウラジオストクで、戦後まもない時代にサハリンで朝鮮学校の教師をしていたという高麗人(コリョサラム)女性に会った。年齢は80歳くらい。「サハリンの朝鮮人が、どうして早く日本帝国主義時代の奴隷根性から抜け出せないのか、私には理解できなかったわ。…あの人たちは常に陰で私たちの悪口を言っていたのよ。それも私たちのわからない日本語で!無表情、無気力で地面に直に腰を下ろして座り、規則を無視し、ハッキリ言って教養もなかった。学校で一生懸命教えたのに、彼らはまったく覚えようとしなかったし…」と言うのを記録したのである。「意欲がなかった」という父のことばと同じだと感じた。
「サハリンの同胞は『祖国へ帰りたい』という一念で、彼らはサハリンでの生活は“仮の宿”程度にしか考えていなかったのではないか、と私には思える」と片山は書いている。それを読んで子供の時から心に住みついていた疑問が初めて消えた。
サハリンには2.98万人の残留朝鮮人が暮らしている。日韓併合条約にもとづいてサハリンまで強制連行された在日同胞は日本人としての国籍が賦与されていた。しかし、1945年8月15日日本敗戦とともに日本国籍を失い無国籍のまま残留されたのである。韓国は3年後の1948年建国されたがソ連との国交はなかった。日本人31万1452人が1949年までに帰国し、日本人766人とその家族である朝鮮人1541人が1957年に帰国した。しかし無国籍となったサハリン朝鮮人の帰国問題に関して日本政府はソ連当局と全く交渉しなかった。
片山は「元日本人であったサハリン朝鮮人は、ここで日本政府に遺棄されたのである」と書いている。なおサハリンには約300人の日本人妻が残っている。
第2節 中央アジアのコリョサラム
朝鮮史セミナーで
2009年3月8日カザフ国立大学朝鮮研究センター所長ゲルマン・キム博士が神戸の青丘文庫で講演した。神戸学生センター主催の朝鮮史セミナーで『中央アジアの朝鮮人―強制移住から70年、その歴史と現在―』というテーマだった。
それによると旧ソ連圏の同胞の人口はカザフスタン10万人、ウズベキスタン15.6万人、ロシア14.8万人、キルギスタン3万人、ベラルーシ0.3万人、タジキスタン0.2万人、
トルクメニスタン0.3万人合計約50万人。
ロシアの人口の内サハリン州2.96万人、沿海地方1.79万人、ロストフ州1.17万人。
その講演に使われたパワーポイントのひとコマを次に再現する。
「居住区、祖国及び他のディアスポラ共同体との関係」
・朝鮮半島の両国と外交関係があるが、コリアン・ディアスポラに対する北朝鮮の影響は総じて小さい。
・韓国との関係は急速に発展した。ビジネス、文化、教育など。
・現地の人びとと韓国人との関係は、公式なものから日常的な接触へと広がった。
・韓国のイメージが、コリアン・ディアスポラの地位を高めている。
・一方、現地のコリョサラムと新来のコリアンとの関係には問題もある。
中央アジアで高いステータスのコリョサラム
以上のように中央アジアの同胞・高麗人(コリョサラム)は元気がいい。カザフスタン以外にも例えばウズベキスタンでも同胞は社会的ステータスが高く400人も博士号の取得者がいる。
第3節 中国朝鮮族
最高の地位についた中国朝鮮族の共産党幹部女性
韓国人カメラマンと結婚した戸田郁子が『中国朝鮮族を生きる―旧満洲の残影―』を2011年6月に出版した。
「永遠なる革命同士、李敬」という記事に注目した。「黒龍江省中国共産党委員会副主席を勤め、日帝時代には金日成と同じ部隊に所属していた抗日闘士、李敬女史は中国朝鮮族の女性幹部としては、最高の地位についた人だと言えるだろう。」という導入である。
文化大革命のとき「李敬は朝鮮人だから朝鮮特務(スパイ)、ソ連に行って来たからソ連特務(スパイ)、幹部だったから反革命分子など、様々な罪名を負わされた。」「1976年に文革が終結すると、陳雷(中国人夫)は黒竜江省長に任命され、李敬は中国人民政府黒竜江省委員会副主席という重要ポストに就いた。それから10年ほど、再び多忙な生活が始まったが、二人は夢中で働き、人生で最も充実したときを過ごした。その間、夫婦は幾度も金日成から国賓待遇で招聘されて、北朝鮮を訪問したという。やがて退職し、ようやく静かで平和な暮らしを手に入れたのだった。」
この本に登場する共産党幹部の話はこれだけだが中国と北朝鮮との関係を理解するには象徴的な話である。
本の内容の構成は「第1章 運命という濁流 第2章 間島(かんとう)の記憶 第3章 わが敵は『大日本帝国』なり 第4章 コリアン・ディアスポラの行方 第5章 刻印する者たち」である。実に21人の中国朝鮮族を取材している。
中国で一人の日本人女性が描く夢
著者は「延辺はまた、全世界のコリアン・ディアスポラの資料を集めるセンターの役割を果たせないか。なにも新しい建物など必要ない。今ある朝鮮族の様々な団体……たとえば延辺作家協会や美術家協会、音楽家協会、撮影者協会、歌舞団、図書館、博物館、学校などで、それぞれが世界に目を向けて交流を深めていけばいい。そして世界中から子供たちを受け入れ、研究者が集まり、心の故郷を求める人々を歓迎すれば、いつか延辺の街は、コリアン・ディアスポラ文化共同体の中心的役割を果たすことができるのではないだろうか……。私一人の、虚しい夢だろうか。」と述べている。
一人の日本人女性がこのような夢を描いているのである。
第4節 世界における在日同胞の地位
黒人霊歌「行けモーセ(Go down Moses)」
『エジプトにおけるイスラエル民族』という歌がある。黒人霊歌「行けモーセ(Go down Moses)」とも言われる。
1、エジプトに住める 我が民の 苦しみ叫ぶを 聞かざるか
行けモーセ パロに告げよ 我が民 去らせよと
2、エジプトを出でて 我が民を 約束の地へと ひきいたれ
行けモーセ パロに告げよ 我が民 去らせよと
3、心を固くし 聞かざれば わざわい来たると 語るべし
行けモーセ パロに告げよ 我が民 去らせよと
4.奴隷にせられし 同胞(はらから)の 苦しみうめくを 聞かざるか
いざ行け 救いいだせ 遠く遠く 同胞(はらから)を
若いとき先輩に連れられてボランティアで聖歌隊活動していたがその時印象に残ったのがこの歌である。それが黒人霊歌であることをあとで知り、そしてとうとうこの歌が何を歌っているのか分かった。「エジプト」は日本、「我が民」は在日同胞であると理解したのである。
ローマ帝国迫害400年史と日本帝国迫害40年史
エジプトにイスラエル民族は400年間奴隷とされていた。アメリカの南部にはアフリカから買われてきた黒人奴隷がいた。エジプトのイスラエル民族と黒人奴隷の置かれている境遇が似ていた。
キリスト教徒はローマ帝国で400年間迫害された。弓削達[2]は『ローマ帝国とキリスト教』でそれを書いた。歴史家にとって日本帝国の韓国朝鮮人迫害とローマ帝国のキリスト教徒迫害は全く同じだった。弓削達は3つの実例[3]をあげてローマ帝国迫害史と日本帝国迫害史を比較している。これはエジプト迫害400年史とローマ帝国迫害400年史と日本帝国迫害40年史に哲学的同時性[4]があることを実証している。
聖地に住む選民となる資格を有することが「世界における在日同胞の地位」なのある。
むすびに……南北の平和統一における在日同胞の役割
在日同胞は日本人と結婚している人が多かった。世界中に同胞がいるのに在日同胞だけが「見えざる38度線」を心の境界線として持っていることを聞いてはいたが本当だった。在日韓国人も在日朝鮮人も感性とか論理は同じである。儒教の伝統文化は同じだった。伝統舞踊や伝統音楽も同じだった。
ロシアから流れ込んできた北回りの文明とアメリカから流れてきた西回りの文明が38度線で衝突[1]したのである。朝鮮王朝は仏教、儒教、キリスト教を文明として受け入れてきた。それらは伝統文化として定着している。ロシアや中国から伝播してきた共産主義文明とアメリカから伝播してきたキリスト教文明は比較されたり消化されたり否定されたりしながら定着するだろう。もう血を流す必要はないのである。平和統一の道を行こう。南北の同胞も在外の同胞も在日同胞も日本人もそこでは一緒に暮らすだろう。
在日同胞の役割は、「信じられない者でも信じてあげて、愛せない者でも愛してあげて、一緒に暮らせない者でも一緒に暮らしてあげる」ことである。在日同胞同士が心の境界線を超えて結婚するのが一番いいと思う。交差結婚が在日同胞の役割だろう。南の人と北の人が結婚できさえしたら家庭から南北統一は実現する。「信じて、愛して、一緒に暮らす」これができさえしたら家の中に南北の平和統一は訪れるのである。2012年を南北統一の年にしよう。
若い善男善女が一組でもいいのである。平和統一のモデル家庭ができたらそこから平和理想が実現できるのである。南北の平和統一は遠くにあるのではなく「家」にある。家を拡大したものが国家である。「家和して万事成る」という伝統文化がそれを教えている。もう一度言おう。2012年を南北統一の年にしよう。もし、一組でもそのような平和統一のモデル家庭がすでにあるなら、それを讃えたり励ましたりしよう。すべては一から始まるのである。日本人も2012年は在日同胞と一緒に朝鮮半島に行って一緒に暮らそう。在日同胞を前面に押し出して一緒にビジネス、文化、スポーツ、国際ボランティア活動をすることは日本人のためでもあることは明白である。賢い人は悟るだろう。
来年も、次の年もいつまでも…いつまでも信じて愛して一緒に暮らそう。[完]
参考文献・補足
はじめに
[1]「一緒に暮らす」は英語でliving together。「共生」や「共に生きる」もliving together。
[2]在日同胞は在日韓国・朝鮮人の意であるが帰化した人やニューカマーも在日同胞である。
[3]10月1日から11月22日までは会社の有給休暇の消化期間だった。正式な退職の日である2002年11月22日に『南北統一支援事務所の設立目論見書』(A4で60頁)を発表した。その日は「いい夫婦の日」と祝された。
[4]産経新聞2002年10月17日夕刊1面には「5人 郷土の土 拉致帰国 福井、新潟へ」という見出しで故郷に向かうため、羽田空港に到着した地村保志さんと浜本富貴恵さん、東京駅から新幹線に乗り込む蓮池薫さんと奥土祐木子さん、曽我ひとみさんの3枚の写真が中央に大きく掲載された。その右に5段抜きで「北朝鮮 核開発認める 今月初め米代表団に 94年米朝合意違反」と大見出しで掲載された。
[5]当時、日本国際問題研究所研究員だった神保謙(現慶応大学教授)は論文『北朝鮮外交に何が起こっているか。「核開発」発言の三つの解釈』で「北朝鮮の立場からすれば、いずれ明らかになるのであれば、今の段階で開発を認めるほうが、比較的誠意ある対応と言えないことはない。この対応のパターンは拉致問題の認定・謝罪と同種のものである。」と述べた。
[6]田中均(当時外務省アジア太平洋州局長)は小泉純一郎のブレーンとして信頼され対北朝鮮外交を進めたが、安倍晋三(当時副官房長官)は田中均の「対話と圧力」外交を嫌い「圧力」だけの外交路線を敷いて田中均を締め出した。
[7] 当時日本ではナショナリズムが高揚し、そのナショナリズムの象徴的な存在が安倍晋三だった。当然ナショナリズムは自分の国の国益ばかりを追求するわけだから「圧力」ばかりかけて相手の言っていることには耳をかさない。ナショナリズムは「戦争する権利」を主張する特徴がある。
文化人類学の研究者たちは「国の名前の前に形容詞をつけてはいけない」と言う。しかし、安倍は「美しい日本」という言葉が好きだった。日本以外は美しくないと言っているように受けとめられた怖れがある。これがナショナリズムの怖さである。
[8] 安倍晋三は拉致被害者が帰国出来たのは「圧力」外交の成果だと強調していたがそうではなかった。田中均が北朝鮮と「対話」して拉致被害者5人とその家族を帰国させたその功績を無視しただけだった。北朝鮮が小泉元首相や田中均を批判したことはない。日米同盟のガイドラインを作成した日本側責任者田中均が守りを固めてから対話で北朝鮮と折衝したことをここでは「攻め」と表現している。
[9]小泉純一郎は日朝国交正常化交渉に政治生命をかけた。1年以内にできると公言していた。
[10]1991年の湾岸戦争で目に見える人的貢献がないと批判されたトラウマが背景にあったので、同時多発テロ発生翌月の2001年10月にテロ対策特措法を成立させ、同法に基づいて、政府は海上自衛隊の護衛艦や補給艦をインド洋に送り、米海軍などへの燃料補給を実施した。『国家と外交』(田中均元外務審議官・田原総一郎共著)p219で田中は「だから、あのときの、われわれのトラウマっていうか無力感っていうのか、非常に強かったですよ」と述べている。
[11]TPO
[12]筆者は南北統一のキーワードは「一緒に暮らす」ことであると考えている。
第1章 一緒に暮らす
[1]和田春樹、姜尚中
[2]作家平野啓一郎は2011年6月25日、26日立命館大学で開催された日本ボランティア学会2011年度大会の特別講演で「分人」という概念を説明した。
[3]日本と韓国の研究者による「日韓歴史共同研究委員会」がまとめた最終報告書の全容が2001年6月10日公開された。古代、中近世、近現代の三分野で、さまざまなテーマに基づいた五十本近い論文や資料などが中心だが、近現代分野では各論文への批評文と、さらには批評に対する執筆者のコメントも併載し、双方の認識の違いを明確化している。
[4] (http://www.jkcf.or.jp/history/first/report3.html)の『第1期第3分科(近現代) 第1部 1910年以前の近代日韓関係 第1章 日韓間の条約問題』p5〜p46 「日韓間の諸条約の問題……国際法学の観点から」(坂元茂樹の報告)と「乙巳条約・韓国併合条約の有・無効論と歴史認識」(鄭昌烈の報告)
[5]原罪はキリスト教用語。キルケゴールは原罪を『死に至る病』として哲学的に存在を論証した。それによると自覚されていない罪は自覚されている罪よりもはるかに罪深い。つまり死に至る病とは自覚さていない罪のことである。
[6]オスカーワイルドは芸術と実生活で唯美主義を実践し、同性愛の廉で罪に問われ、懲役2年の判決を言い渡された。『獄中記』は自覚されていなかった罪を自覚するようになり「深淵からの叫び」として書かれた。岩波文庫。
第2章 南北の平和統一方式の考察
[1]2004年5月1日のキプロスのEU加盟を前に、北キプロスが政治的経済的に取り残されることを避けるため、国連のアナン事務総長の仲介で南北大統領による統合交渉が行われ、3月31日の交渉期限直前に国連案(アナン・プラン)に基づく住民投票案が合意された。しかし、4月24日に行われた南北同時住民投票はギリシャ系の南側の反対多数という結果に終わった。
[2]沿ドニエストル[共和国]は国連から承認されていない。大統領もいて国会もあるが中国に対して台湾のような地域である。
[3]統一には事実上の統一と法律上の統一がある。一方、独立には事実上の独立と法律上の独立がある。一般に領土問題でよく使われる「実効支配」は軍事的支配を意味していてそれを「事実上の統一」とは言わない。
[4]朝鮮戦争は北朝鮮が武力で韓国を統一しようとした戦争であったが失敗した。ベトナム戦争は北ベトナムが南ベトナムを統一しようとした戦争でありアメリカの保護を期待した軟弱な南ベトナム軍は共産主義で思想武装された北ベトナム軍に負けた。共産主義の支配を怖れて南ベトナムから「ボートピープル」と呼ばれる多くの難民が国外に脱出した。その時日本はベトナム難民を受け入れ、兵庫県姫路市に住まわせたので兵庫県には多くのベトナム人が一緒に暮らすようになった。一番多くのベトナム難民を受け入れたのはアメリカであり、アメリカはベトナム難民にも教育の機会を十分に与えた。アメリカはベトナム難民から優秀な人材を獲得し政府の要職にも採用しているのでアメリカはベトナムに大きな影響力を行使できるのである。日本にも難民を受け入れる度量が必要である。
[5]1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯に属するショプロンで汎ヨーロッパピクニックが開かれた。ショプロンはハンガリーからオーストリア領に食い込むような形になっておりオーストリアに脱出しやすいと考えられた。このピクニックに参加すれば国境を越えられるという情報を聞いた付近一帯の東ドイツ市民およそ1000人の参加者が詰めかけた。オーストリア側のブルゲンラント州が国境を開放したので参加者は続々と国境を越えた。
[6]北朝鮮が崩壊すると難民が発生する。日本を初め周辺国、米中ロ韓は難民を受け入れるしか方法がない。韓国一国では何もできない。
北朝鮮が難民化した場合日本は少なくても北朝鮮難民200万人くらい受け入れなければならないだろう。日本は覚悟しているだろうか。日本は受け入れられないと判断した場合、モンゴルあたりに難民キャンプを作ってもらって最大の必要な支援をすると言い出すかもしれない。それをするにしても数兆円の支援をアメリカから要請されざるを得なくなる。それを断る理由はない。戦争するよりははるかに安いわけだから日本はそうするかもしれないが、もし経済支援をするだけで北朝鮮難民を日本に受け入れないなら日本はモンゴルからも韓国からも評価されないだろう。かつてのクエートと同じように韓国は北朝鮮難民を受け入れた国の名前をあげて謝意を表し全米の有力紙に全面広告を掲載するときそのリストには日本【JAPAN】を見つけることはできないだろう。そうなったら『201X年日本の敗北』である。「一緒に暮らす」ことによってしか日本が生きていく道はない。
日本は難民でも移民でも200万人くらいはいつだって受け入れて教育し、仕事をしながら平安に生活できる法律をつくるべきである。それは少子化対策でもある。日本の大学や高校を卒業してもかなりの若者が就職できない現実があるわけだから、それを無策のまま放置しないで、就職できない若者や失業者には就職できるまで職業訓練をして、誰もが仕事をしながら平安な生活ができる法律をつくることは政治家に課せられた緊急の責任である。
競争に勝った者だけが生きるのではなく、負けた者にも励ましや挑戦する機会を何度でも与えて復活再生させる職業訓練が絶対的に必要である。仕事がなくて無気力になってしまった失業者を放置することは国家的な罪である。職業訓練と就職は掛け声だけではできない。
日本はGDPに対する教育費が3.3%で経済協力開発機構OECD諸国34ヵ国で最下位にランクされ続けている異常な国である。
[7]義勇軍はボランティアであって非政府組織。中国は人民解放軍を投入していない。つまり、中国政府は朝鮮戦争に加担していない。休戦協定に参加したのは中国の義勇軍であって中国の政府軍ではない。
[8]クリントン元大統領は北朝鮮と米国単独で「米朝枠組み合意」を練り上げた。北朝鮮の意図を見抜くことができなかったし、たとえ騙されていたとしても米国以外の国には発言の席は用意されていなかった。日本も米朝の枠組みの外に置かれていたので発言の席はなかった。そういう失敗を繰り返さないように6ヵ国協議ができたので北朝鮮にとって6ヵ国協議の決議は最後通牒にならざるを得ない。それを遵守しなければ北朝鮮は孤立する。
[9]2011年8月20日KBS WORLD
[10]「連体」は『統一思想要綱』(統一思想研究院 光言社刊 2000年)第2章「存在論」で詳細に論じられている。(p180〜p184)
[11]弁証法的唯物論と史的唯物論 無政府主義か社会主義か?』p14(大月書店 国民文庫 1969年第4刷)
[12]『実践論・矛盾論』p23、p25、p26、p70、p77(岩波書店 岩波文庫 昭和43年第15刷)
[13]日本国際フォーラム理事長、青山学院大学名誉教授
[14]背景に南北戦争が描かれている。ミッチェルの唯一の作品。ノーベル賞受賞作品。
[15]例えばWHO事務局長は中国人の女性医師マーガレット・チャンである。中国は「台湾はWHOに加盟している」と言っている。近年鳥インフルエンザが流行した。WHO神戸センターからアジアの様々な国に医療関係者が派遣され直ちに対策した。その時中国には鳥インフルエンザが発生したが台湾には鳥インフルエンザは発生しなかった。WHOのホームページには世界地図に鳥インフルエンザの発生した国と発生していない国に色分けして旅行者に注意を喚起することにした。台湾は鳥インフルエンザが発生していないにもかかわらず中国と同じ鳥インフルエンザが発生「注意」喚起の色に分類されたのである。当然台湾への旅行客はガクンと減少した。これは問題だった。WHO神戸センターのセミナーに参加したとき「ひとつの国に二つの地域があって一方の地域が二つの地域の拠出金を出している場合二つの地域はWHOに加盟していると考える」と説明した。「独立でもなく統一でもない」という表現はWHOでは問題である。
また、「独立でもなく統一でもない」という状態は現状維持である。台湾では与野党とも現状維持しか方法がない。2010年9月23日産経新聞はコラムで「統一派は減った」を掲載し現状維持とは「統一せず明確な独立宣言もせず、事実上の独立を維持」することと説明している。中国は政経分離を政策としている。中台は経済協力枠組み協定(FCFA)締結後経済では一体化しつつある。中台海底トンネルを建設する計画もあり経済で統一するのは時間の問題である。中国は1500基のミサイルを台湾に向けてはいるが武力統一はあきらめるしかない。武力統一は不可能である。武力統一したら経済が崩壊する。台湾は中国の核兵器やミサイルを怖れていない。中国政府は経済発展が停滞したら中国崩壊間違いないことを身にしみて知っている。ソ連崩壊は経済の停滞が最大の理由だった。中台の経済一体化が進むほど武力統一は遠のくことを台湾は見抜いている。中台統一は平和統一しか方法がない。
[16]ネオコン(新保守主義)の論客フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』(三笠書房1992年)を発表した。冷戦の終結をもって歴史の終焉とした。古い歴史は終わって新しい人類の歴史が始まるという意味である。キリスト教では「終末」と表現する。ネオコンは歴史の終焉の「時」を間違えた。ネオコンは新世界秩序を提示できなかった。時を間違えたので位置と方向性を正すことができなかった。歴史の終わりは1914年から1918年の第一次世界大戦である。それが終末である。国民国家が世界大戦の原因であることを人類は学んだ。超国家機構こそ新世界秩序である。国際連盟、国際連合、欧州連合は新国際秩序を目指している。これは明らかに中世への回帰である。中世は国境がなかった。神本主義時代だった。そこに新世界秩序のモデルがある。伊藤憲一は第二次中世というキーワードでそれを説明しようとした。
[17]田中明彦(現東京大学理事・副学長)は1996年『新しい「中世」―21世紀の世界システム―』(日本経済新聞社)を発表した。
[18] モルドバ人とはモルドバ在住ルーマニア人のことである。モルドバにはルーマニア人だけでなくロシア人、ガガウズ人が一緒に暮らしている。
[19]「農村社会においては、例えば子供の交換という慣行があって、農繁期の労働力の交換とか、局地的な市場でのつき合いに役立てる。そうすると、言語が混合していて、互いの言語にその語彙も入り込んでいくというようなことが現実に起こっている。」と小沢弘文(千葉大学教授)がシンポジウム―日本とユーラシア―『いまなぜ国民国家か』の討論の中でエピソードを披露した。(2008年3月1日、2日 京都市国際交流会館で開催 報告書p64 国立民俗学博物館発行)
[20]2011年6月25日ロードショウ。織田裕二、黒木メイサ出演。
[21]ドン・オーバードーファーは『二つのコリア』(共同通信社1998年刊)で次のように書いている。「第二次世界大戦の最後の週にソ連がついに対日宣戦布告をし、満州と朝鮮北部に軍隊を送ると、米国は初めて朝鮮半島に対する戦後政策を考え出したのだ。ソ連が朝鮮を占領すれば、日本と東アジアの将来にとって軍事上、重大な問題が生じる。そのことにワシントンは突然、気付いた。エール大学の歴史学者リチャード・ウェランはあの時点で、「米政府としてはおそらく、朝鮮が存在しなかったら一番都合よかっただろう」と指摘している。当時、日本における軍政実施に備えて約2000人の民政担当当局者が訓練を受けており、この国のために精密な計画が立てられていた。ところが朝鮮の対応については誰も訓練を受けておらず、何の計画もなかった。」p20
[22]釜山発展研究院広域基盤研究室長の崔治国(チェ・チグク)博士は2010年10月13日、韓日海底トンネル構想に関する資料を公表し、韓日海底トンネルが建設されれば、北東アジア貿易が活性化されるだけでなく、北東アジアを「一日生活圏」にし、天文学的な波及効果が生まれるとの見解を示した。これは明らかに38度線という壁がなくなっていることを前提とした波及効果である。
第3章 南北統一のタイムテーブル
[1]城山三郎は『大義の末』(角川文庫 昭和50年)を書いた。天皇と皇国日本に身をささげる「大義」こそ自分の生きる道と固く信じて死んでいった戦争末期の愛国少年への鎮魂歌として、その時代に生きた青年の挫折感、絶望感を鮮烈に描き、天皇制の問題を究極の文学に結実させた不朽の名作。“この作品を書くために作家を志した”と著者自らが認める、城山文学の最高傑作。
[2]ジャーナリスト田原総一郎は『日本の戦争』(小学館 2000年)を書いた。第二次世界大戦は日本が起こした日本の戦争だった。私はそのことを中学校の歴史教科書に少なくても1頁程度書いてそれを学校の先生が読んで生徒に教えなければ日本の歴史認識は変わらない、教科書問題はそのようにして初めて解決できると考える。
[3]『朝鮮王朝実録』(朴永圭著 新潮社1997年刊)p345、『西洋と朝鮮―異文化の出会いと格闘の歴史―』(姜在彦著 朝日新聞社2008年)p204
[4]塩野七生は『ローマ人の物語36』(新潮文庫 平成21年9月)で「最後の努力(中)」を書いた。P117からp157まで40頁にわたってでキリスト教公認について詳細に論じている。「歴史を愉しむからには、どうしても覚えておかなければならない『年』がある。紀元313年は、そういう『年』のひとつだ。ただしそれは、今や名実ともに帝国西方の正帝になったコンスタンティヌスと、帝国東方の正帝にあるリキニウスがミラノで会談したからではない。また、マクセンティウス討伐行の前に交じわした密約どおりに、リキニウスと、コンスタンティウスの異母妹との婚礼が行われたからでもなかった。歴史上重要な『年』とされるのは、キリスト教がローマ帝国の皇帝によって公認された年だからである」という書き出しである。「この勅令によってキリスト教が、他の宗教に比べて優遇されるようになったわけでもなかった。ローマ帝国に住む人すべてに完全な信教の自由を認め、そのことを公にした勅令であったのだ。しかし、それでもなお『ミラノの勅令』が、歴史を画する重大な史実とされる理由は十分にある。それは、ローマ人が1千年以上にもわたって持ちつづけてきた宗教に対する伝統的な概念を、紀元313年のこの勅令は断ち切ったからである。1886年朝仏修交通商条約はそれと全く同じ様相を呈している。
[5]2002年5月26日産経新聞の『日韓新考』欄
第4章
[1]あまり知られていない旧ソ連圏をフィールドとして研究活動をしておられる。私の活動を研究者の立場から支援をして下さっている文化人類学の研究者。ご自身の博士論文をもとに『呪われたナターシャ……現代ロシアにおける呪術の民族誌』(人文書院)を昨年発表した。有名書店の文化人類学のコーナーで販売されている。全国の図書館でも貸し出されている。著者はロシアのカレリア共和国に単身で数年滞在してポスト社会主義の宗教事情を研究してこられた。カレリア共和国はモルドバより遙か北にあってフィンランドに接している。呪術とキリスト教の関係を論述しながら、かつての地縁共同体に代わって呪術に関する知的なネットワークが存在することを実証している。
1917年ロシア革命、1991年旧ソ連崩壊。その後キリスト教は復興している。同じ理由で呪術も復興している。私であれば、神を中心としたキリスト教は価値基準が変遷しないから復興し、共産主義は価値基準がいつも変遷したから滅亡したと考えるが、著者は、キリスト教は変遷しながらも存続していると見ているようである。ここに、呪術がいかにキリスト教に取り込まれていったのか、呪術がいかに科学的な言葉を必要としたのか、呪術を信じていなかった人々がどのようなプロセスを経て信じるようになったのか、有神論者にも無神論者にも示唆に富んだ表現は驚くに値する。一読をおすすめしたい。ちなみにロシアで呪術を信じている人口は7%、ロシア社会では呪術に関する新聞広告、雑誌、学術書が多い。
[2]1924年生まれ。古代教会史、後期ローマ帝国の社会構造分析の研究者。東京大学名誉教授。元フェリス女学院大学学長。2006年死去
[3]『ローマ帝国とキリスト教』(弓削達著 河出文庫 世界の歴史5 1989年)①p323―p324異教的信仰告白の要求②p352―p353不幸の責任転嫁③p383―p384国民精神動員
[4]アーノルド・トインビーは『試練に立つ文明』(現代教養文庫 社会思想社刊 昭和41年p10)で第一次世界大戦とペロポネソス戦争を比較して哲学的同時性と表現した。神学を研究している人ならば哲学的同時性を摂理的同時性と表現するかもしれない。
むすびに
[1]「現代」のイスラエル(イスラエルは旧約時代の選民。新約時代の選民はキリスト教徒。ここでは現代の選民の意)は精神的に見ると中東のイスラエルではなく朝鮮半島であるといえないだろうか。イスラエルから西回りに流れてきた文明が神中心主義ヘブライズムであり、ローマ帝国、フランク王国、神聖ローマ帝国、宗教改革、イギリス革命、アメリカ独立、そして朝鮮半島へと流れてきたのはないのか。またギリシャから北回りに流れてきた文明が人間中心主義ヘレニズムであり、ローマ帝国、ルネッサンス、フランス革命、ロシア革命を経て朝鮮半島に流れ込んできたのではなかったか。朝鮮半島はヘブライズム文明とヘレニズム文明の終着駅の様相を呈しているのである。文明の衝突とも言える。朝鮮半島は一つの民族が暮らしているところであるが、同じ文化でも伝播してきた文明が違ったので衝突したのである。
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