モルドバの著名なジャーナリストアレキサンドル・ ゲオルギッツァ氏との出会いについて書くと日本モルドバ両国の友 好協会設立の歩みを書くことになります。 その歩みを書くことはすなわち、 ゲオルギッツァ氏の手記出版の意義や社会的な価値を確認すること にもなります。
1998年冬季長野オリンピックにモルドバからはトライアスロン の選手が男女2人参加しました。
モルドバは1991年に独立しましたので、 独立間もないモルドバのオリンピック委員会は選手と一緒にスポン サーなど関係者を同行させましたが、 ジャーナリストを同行させる予算はありませんでした。
当時、 私たちはモルドバの伝承音楽や伝承舞踊を復興させるために「 モルドバ復興支援協会」を1997年に設立しモルドバに事務所を 開設していましたところ、 歌手や劇団員から支援してほしいという申し出を受け、 列をなすほどでした。しかし、 申し出の多くについて予算の関係上お断りすることが私たちの仕事 のような状態でした。
その中でもどうしてもお断りできないものがありました。
長野オリンピックの主催者が「一国一校運動」 を提唱していましたので、 美喜理事は日本とモルドバを往復するたびに信州大学付属長野小学 校とモルドバの学校を交互に訪問し、 子供たちの絵を交換したり民族衣装を届けたりしていました。 長野オリンピック開催まで数回学校訪問をし「一国一校運動」 を続けていました。
そうこうしているとモルドバの著名なジャーナリスト3人から「 日本へ招待してください」と要請を受けることになりました。 招待してほしい理由について次のような説明がなされました。
① 私たちジャーナリストは日本に行ってモルドバの2人の選手が世界 の選手たちと一緒にスポーツ競技で活躍していることを取材して、 モルドバ国民に報道したいと思います。
② 独立して間もないモルドバの代表が世界の青年たちと一緒に活躍し ているところを、 モルドバの国民が報道で目撃したらモルドバの国民の心が復興する と思います。
スポーツがモルドバ人の心を復興させることができるというわけで す。そのことのためにモルドバの新聞、ラジオ、 テレビのジャーナリストを日本に招待してほしいという要請を受け たわけです。
その時私は上場企業に勤めていました。 社内の持ち株制度で自社株を定期的に買い集めていましたので、 それを全部売って3人のジャーナリストを日本に招待する資金にし ました。
信州大学付属長野小学校のPTA会長が入居前の新宅を開放して3 人をホームステイさせてくれました。 オリンピックの期間中毎日夜になると電話回線を通じてラジオでモ ルドバ全土にオリンピックの様子が報道されました。 美喜理事と今中由美子理事がつきっきりで3人のジャーナリストを お世話しました。 美喜と今中由美子はモルドバオリンピック委員会から長野オリンピ ック会場を出入りできる特別の許可証をもらっていつも会場を出入 りしていました。
信州大学の英語学の渡辺時夫教授が付属小学校校長でしたので、 相談して3人の日本滞在の保証人になっていただきました。 外務省の外事課がモルドバ人の日本入国を厳しく制限していました ので保証人が必要でした。 私たち一般人がモルドバから人を招待することは気が遠くなるぐら い夥しい書類が必要になります。 ビザの取得は簡単ではありません。
そして渡辺教授は当時慶応大学大学院で国際経済学を6年間も研究 していたモルドバ人ユリエ・ プンザル氏を呼んで合流させてくれました。 プンザル氏は帰国後すぐに大統領府補佐官に任命され、 現在はモルドバ日本友好協会の第2代会長として一緒に活動を続け て下さっています。
長野オリンピックが閉会されると東京の講道館とNHKを案内しま した。柔道はモルドバで大人気です。ブチャスキー氏がNHKのロ シア語講座に飛び入り出演してモルドバを紹介するというサプライ ズもありました。
またその少し前、 美喜理事が産経新聞神戸支局の佐々木正明記者に取材され「 神戸の女(ひと)」というコラムで大きく紹介されたことが縁で、 佐々木記者が1日休みを取ってジャーナリストたち4人を奈良観光 に案内してくださいました。 佐々木記者は大阪大学でロシア語を学びモスクワに留学していてロ シア語が堪能です。モルドバ人はルーマニア語とロシア語という2 言語を話します。 また佐々木記者は私と同じ名前で親しみがわきました。 その後佐々木記者はモスクワ支局長となってモルドバも訪問しモル ドバをどこの新聞よりも深く広く紹介してくれました。 現在はリオデジャネイロ支局長としてリオオリンピックを報道する 著名なジャーナリトです。
新神戸駅前のグリーンヒルホテルでモルドバのジャーナリストたち 4人の歓迎パーティーをしました。その時ゲオルギッツァ氏が「 私たちはたとえ一生貯金したとしても日本に来ることはできません 。日本に招待してくださって心から感謝します」 と印象的な挨拶を残してくださいました。
写真(上)の説明:左から①ユリエ・プンザル氏②ニコライ・ ブチャスキー氏(テレビ)③イゴル・グズン氏(新聞政治記者)④ アレクサンドル・ゲオルギッツァ氏(ラジオ)
画像:中表紙 タチアナ夫人のメッセージとサインが書いてあります。
神戸市の「しあわせの村」でバイキングにジャーナリストたち4人 を案内しました。「ここは地上天国のように美しいです」 と言って写真を撮り続けなかなか離れようとしませんでした。 そしてゲオルギッツァ氏が「 私たちはモルドバに帰国したらモルドバ日本文化文明友好協会を設 立します」と約束しながら感動的な感想を述べてくれました。 これがゲオルギッツァ氏との出会いの一部始終であり友好協会誕生 の経緯です。私たちはそれを日本語で表現する時、 文化文明という言葉を省略して「モルドバ日本友好協会」 と呼ぶことにしているわけです。
それに呼応して日本側でも「日本モルドバ友好協会」 を設立することになりましたが、 実現するには何度も理由があって延長され10年以上の歳月がかか りました。 信じられないような出来事が起こりましたが明らかにできるものだ けを書いてみたいと思います。
私は日本モルドバ友好協会の設立趣旨書を書き上げて神戸でそれを 設立しようとしましたが構想だけで設立には至りませんでした。 何人かの人に相談していましたところ、 趣旨の違う他の国際ボランティア団体から「 お手伝いするので書記局を任せてほしい」とか「 会計はこの人に決めてほしい」というような介入を受けました。 私たちのアイデンティティーを維持するためには設立を取りやめる しか方法がありませんでした。本当に小さな団体だったのです。 当面は兵庫県国際交流協会に「モルドバ復興支援協会」 を登録して活動を続けることが一番いい方法であると考えました。 それ以来、 他の国際ボランティア団体と共同して活動することには大変慎重に なってしまいました。
やがて私は東京で南哲郎氏に出会いました。 南氏は鹿児島のお方で自民党の二階堂進元副総裁の筆頭秘書をして いたお方で、 モルドバ日本友好協会を鹿児島で設立したいとお考えでした。 懐に温めていた設立趣旨書を差し上げるととても喜ばれました。 すぐに鹿児島の政財界の人を発起人として日本モルドバ友好協会を 設立して下さいました。それから6年間というもの神戸から900 キロ、車で何回も往復しました。麻生太郎氏が外務大臣の時に「 自由と繁栄の弧」政策を発表し、その同名の書籍で「 モルドバ復興支援協会」の活動を高く評価していただきましたし、 首相におなりになったときには高速料金は1000円に統一してく ださったので鹿児島に行くことは何の苦痛もありませんでした。 ところが6年後南哲郎氏の体調がすぐれないという理由で「 日本モルドバ友好協会は神戸にお返しします」 と申し出てこられました。南氏からは友好協会の活動のために10 00万円の資材を投入しましたという報告を受けました。 そのあとは休会状態でした。
鹿児島時代の日本モルドバ友好協会の会長は画家坂井貞夫氏。 大学で絵画を教えておられました。 国際漫画シンポジウムを主催しておられモルドバの画家たちとも親 交がおありでした。 夫人は上野知子さんという著名なラジオのジャーナリストです。 ご夫妻は今も温かく私たちの活動を見守ってくださっておられます 。
そのあと私は美喜理事と一緒にロックグループで音楽活動をしてお られた水谷圭一氏と出会い、 モルドバでコンサートをしたいという私たちの希望を話すと意気投 合しました。 東京でお会いするといつもコンサートの話をしました。 水谷氏の本業はマルチメディアクリエイターでホームページ制作の プロフェッショナルでした。 やがて日本モルドバ友好協会のホームページを立ち上げて下さり。 広報活動をしてくださったのです。すると、 当時ルーマニア大使館でお仕事をしておられた川村容子さんからモ ルドバでフジコ・ ヘミングさんのコンサートをしませんかという提案がありました。
ここで初めて日本モルドバ友好協会とモルドバ日本友好協会の共同 主催でフジコ・ ヘミングモルドバ公演を成功させ両国の友好協会が社会に認知され ることになりました。 その時に在ウクライナ日本国大使館も後援してくださいました。 坂田東一大使も挨拶にお越しになり私たちは記者会見もしました。 モルドバ国会の文化芸術スポーツ委員会のルチンスキー委員長がレ セプションにお越しになり真っ白いバラの花束がフジコ・ ヘミングさんに贈呈されました。 ルプ国会議長からは真っ赤なバラの花束がステージに届けられまし た。コンサートは大成功でした。
ここでイリーナ・ビルダさんに出会いました。 彼女は国際交流基金の招待で日本に滞在して1年間日本語を学びま した。現在、在モルドバ日本国大使館でお仕事をしておられ、 お仕事がお休みの時はいつでも私たちを助けて下さいます。
ここで、ゲオルギッツァ氏の手記の149頁と150頁の部分を掲 載します。
これは、 日本モルドバ友好協会とモルドバ日本友好協会が共催した第1回フ ジコ・ ヘミングモルドバ公演での記者会見で発表したメッセージ全文です 。オリジナルのメッセージは日本語で書いてあり、 当時一緒に活動していた川村容子さんがルーマニア語に通訳して発 表されたものです。 日本モルドバ友好協会が創設に至る経緯が含まれています。
第1回フジコ・ヘミングモルドバ公演記者会見でのスピーチ(
2012年10月31日17:30からオニシフォルギブ公立図書 館にて
お集まりの皆様こんばんは。 日本モルドバ友好協会理事長沓澤正明と申します。
本日は私たちのためにお集まりいただきありがとうございます。
本日は、 モルドバ日本友好協会と日本モルドバ友好協会がどのような経緯で 創設されたのか話したいと思います。
1998年、日本で冬期長野オリンピックが開催されました。 そこにモルドバから2人のトライアスロンの選手が参加しました。 新聞、ラジオ、テレビのモルドバの3人のジャーナリストによって モルドバの選手の活躍ぶりが報じられました。
この3人のジャーナリストは私たちが長野オリンピックに招待しま した。 そこに一緒にお手伝いするために慶応大学に留学していたユリエ・ プンザルさんも東京から駆けつけてくれました。
ジャーナリスト達は毎日モルドバの選手の活躍ぶりを報道し、 モルドバ人の精神を世界の若者に懸命に伝えました。
その中にモルドバの著名なジャーナリストアレキサンドル・ ゲオルギッツァさんがいました。 皆さんももちろんご存じの方だと思います。
私は日本の神戸に住んでいます。 神戸のホテルで歓迎パーティーを開きました。
アレキサンドルさんは「日本を知ることができて本当に嬉しい。 そして、モルドバに日本の文化を、 日本にモルドバの文化を発信したい」 と感謝の意を表してくれました。 このようなアレキサンドルさんの発言によってモルドバ日本友好協 会が創設されたのです。
残念ながらアレキサンドルさんは2年前にご病気でお亡くなりにな りましたけれども、 私たちは彼の意志を受け継いでいきたいと思います。
このコンサートによって皆様と私たちが心を一つにし、2国間がい っそう良好な関係を構築できるようご協力賜ることができたらあり がたいと思います。
明日のコンサートにお越しいただきますようよろしくお願いいたし ます。
以上が本に書いてある私のメッセージの部分です。
第2回フジコ・ ヘミングモルドバ公演の時は国際交流基金モスクワ支局に共催して いただき在ウクライナ日本国大使館に後援していただきましたが、 複雑な書類の申請に信じられないくらい時間を取られました。 そして法人化しない限り、 これからは国際交流基金や大使館からは相手にもされないという限 界を知らされ、骨身にしみるような経験をしました。
このようにして日本モルドバ協会をNPO 法人化する必要性が生じ、2年間の準備期間を経て2015年6月 15日東京都からNPO法人として認証されました。 この間東京でいつも行動を共にしてくださった水谷理事に感謝の意 を表します。
そのような準備期間のさなか、 故ゲオルギッツァ氏の手記が残されていたことがタチアナ夫人によ って知らされ、 それを本として出版したいので出資をしてほしいという申し出をい ただきました。
一方日本では、 当時日本陸上競技連盟でお仕事をしておられた秋和美穂子さんモル ドバ日本陸上競技連盟を4日間訪問し、 旧ソ連時代のままの練習施設を目撃して、 何とかしてあげたいという願いを持つようになって、 スポーツでモルドバを支援したいと申し出をしてくださいました。
秋和さんはスポーツがご専門ですので、 タチアナ夫人の要請を心から理解して資金を提供してくださいまし た。この場をお借りして秋和さんに感謝の意を表します。 本の題名は「アレキサンドル・ゲオルギッツァの生涯と運命」 です。本は300冊印刷されました。 この本の出版記念パーティーが9月にモルドバで計画されています 。
この本の出版には次のような意義と社会的な価値があると考えます 。
① モルドバと日本両国に友好協会が設立されて活発に活動しているこ とが社会に認知されます。② 日本の文化文明が著名なジャーナリストの表現でモルドバに美しく 伝えられます。
③ 1998年長野オリンピックから始まった日本とモルドバの友好の 輪が2020東京オリンピックで大きく花開くことが期待できます 。
④ スポーツジャーナリストの運命が表現されているわけですからスポ ーツ分野の人とのつながりが期待できます。
⑤ ルーマニア語で書かれていますので日本国内のルーマニア語を話す 人たちとの交流が期待できます。
③ 1998年長野オリンピックから始まった日本とモルドバの友好の
④ スポーツジャーナリストの運命が表現されているわけですからスポ
⑤ ルーマニア語で書かれていますので日本国内のルーマニア語を話す
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