2022年12月18日日曜日

講演『歴史から見たモルドバの文化的地位』

2022年11月30日から12月4日まで京都市国際交流協会と共催して、姉妹都市コーナー・展示室で『モルドバGalleryと講演の全国フェスタ』を開催しました。 
入場者は78人、そのうちの講演参加者は8人でした。 入場者の多くはモルドバのことは初めての様子で「何をやっているのかしら」という好奇心で入場してしまったという感じでした。 私は大中小3枚の手づくりのポスターをエントランスの外、エントランスホール、それに2階の奥の会場の入り口に立てかけました。 

ポスターは赤と黄で遠くから見てもわかるようにしましたので、「アレッ!何だろう」と興味を起こしてなんとなく入場したのだと思います。78人の入場者のうち半分くらいの入場者には個別に話しかけモルドバのことを言葉で詳しく説明していました。話しかけたくてもほかの半分くらいの人には話しかけることは一人では絶対的に無理でした。そういうことがあらかじめ予想されましたので、今回は絵画20点について詳しい解説をキャプションの代わりに作成しました。A5の用紙に印刷して貼りだしたところ、それを読んでくれる入場者が多く、時間のない人はスマホで写真を全部撮っていました。2回も3回も入場して下さるお方も散見されました。20点の解説を作成するには何日も徹夜して準備する必要がありましたが大成功でした。 

「ウクライナ人がスラブ民族で、モルドバ人はラテン民族であることを初めて知りました」という感想が一番多かったです。いかに入場者の多くの人が解説を読んでくださったかよくわかりました。大変ありがたかったです。 そして講演会には8名のお方が参加してくださいました。15脚の椅子を準備したのに誰も来なかったらどうしようと思いましたが、8人のお方にありがたいと思い90分間立ちっぱなしで講演しました。

そして「ウクライナ戦争がプーチンの戦争なんかではなくハンチントン教授が30年前に発表した『文明の衝突』だったということを初めて知りました」と感想を口々に述べられました。写真と講演レジュメを掲載します。(文およびレジュメ:沓澤正明 写真:京都市国際交流協会提供)

歴史から見たモルドバの文化的地位~西欧とロシアのはざまに立つモルドバ~

NPO法人日本モルドバ友好協会理事長 沓澤正明

〒651-1132 神戸市北区南五葉3-2-35

電話078-594-2785 メール molkorjp@yahoo.co.jp

  1.  文明の衝突 『文明の衝突』ハンチントン教授 1993年発表1998年出版

 西欧文明の東の境界(p239)の地図によると1500年頃の西欧のキリスト教の勢力範囲と東方正教会の勢力範囲が明示されていてベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、ルーマニア、セルビア、ブルガリア、ボスニア、モンテネグロ、マケドニア、アルバニア、ギリシャは東方正教会の勢力範囲に区分されている。また、ウクライナ:分裂した国家(p251)の地図によると1994年2月に実施されたウクライナ大統領選挙の開票結果、ウクライナの親EU派候補と親ロシア派候補の勢力範囲が東西に分裂していることが明確である。

 ロシアはNATO拡大を強行に反対している。リベラルで西欧志向の人達がNATOを拡大するとロシアのナショナリストと反西欧主義者は大いに政治勢力を強めることになる。NATOの拡大を歴史的な西欧のキリスト教国に制限すればセルビア ブルガリア ルーマニア モルドバ ベラルーシ ウクライナはNATOから除外されることをロシアに保証することになる。p244


  1.  モルドバ現代史 1991年、旧ソ連崩壊と同時に独立した

 モルドバは大勢の人々がやがてルーマニアと再統合されることを期待していた。それを恐れてロシア化した東部に分離の動きが起こり、モスクワの暗黙の支持とロシア軍の積極的な支援を受けて沿ドニエストル[共和国]が成立した。ルーマニアとの統合を望む熱量は 両国の経済問題と経済的圧力によって抑えられた。モルドバはCIS(独立国家共同体)加盟し ロシアとの貿易を拡大した。1994年の議会選挙で 親ロシア政党が圧勝した


  1.  ヨーロッパ化したスラブ人とロシア系スラブ人

 ウクライナの西部と東部の違いは住民意識に如実に表れている。たとえば1992年末に ウクライナ西部の住民の3分の1はロシアに対する敵意に苦しんでいると答えたが キエフでそう答えたのはわずか住民の10分の1だった。東西分裂が劇的に現れたのは1994年7月の大統領選挙だった。西ウクライナのヨーロッパ化したスラブ人の考える理想像とロシア系スラブ人の考えるウクライナの理想像の分裂を明確に反映している。このような東西分裂は民族の分裂によるものではなく文化の違いによる分裂である。

  1.  ウクライナの3つの可能性

  1. 重要なことは文明であるなら、ウクライナ人とロシア人のあいだに武力衝突は起こらない。両者ともスラブ人で大半が正教系であり、何世紀にもわたって緊密な関係を保ち、両者間の結婚もごく普通に行われている

  2. もっと実現可能性のある道は、ウクライナが断層線にそって分裂し二つの独立した存在となって、東側がロシアに吸収されるというものだ

  3. さらに可能性の高いシナリオはウクライナが統一を保ち、分裂国でありつづけおおむねロシアと緊密に協力し合うというものである


  1.  第三のローマ

 『宗教・地政学から読むロシア』下斗米伸夫教授 2016年発表。東方キリスト教がロシアの古名とされるルーシにやってきたのは10世紀末である。988年に大公ウラジーミルがクリミヤ半島で洗礼を受けキエフ・ルーシがキリスト教化した。ルーシがキリスト教化することによってルーシの後継ロシア国家の起源となった。キリスト教が伝播されることによって東ローマ帝国の政治的宗教的遺産を相続した。モスクワのことを「第三のローマ」と呼ぶようになった。ロシア国家の起源はオーソドックス(正教)という宗教にある。民族や言語までもがそこに淵源している。そのように信じられている。

※このことを理解できないとロシア・ウクライナ問題を理解できない


06. タタールのくびき キエフが13世紀にモンゴル軍によって席巻された

 タタールのくびきのあとオーソドックスの教会や修道院がロシア北方に移動し、そこで信仰を維持した。キエフ陥落後もロシアの国家性を維持したのはオーソドックスの教会や修道院だった。オーソドックスでは国家と教会が密接に結びついている。オーソドックスの世界では国家が人間を管理し、教会が魂を担当している。両者の関係は「シンフォニー(交響)」のように調和的な関係である。オーソドックス(正教)という言葉に自らの宗教が東ローマ帝国とともに歩んできて「正統」で「正しい道」であるという強烈な主張がある。聖書は最初にギリシャ語で書かれたのでギリシャ正教が存在しエルサレムなど原始キリスト教史跡が主張となっている。

 ※タタールのくびきとは1236年から1480年までルーシをモンゴル軍が席巻したこと。

                      (2022.12.3京都市国際交流協会で講演)


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