2012年2月27日月曜日

なぜモルドバか

2004年3月日本モルドバ友好協会設立当初、鹿児島の南哲郎さんから「是非、モルドバ共和国との国際交流をしたい」という申し出がありました。ついては、今まで鹿児島で南さんと共にボランティア活動をしてこられた人達から「なぜモルドバか」という質問が出ているので、鹿児島に来て話してほしいと要請を受けました。



私事で始まって恐縮ですが、私は北海道の上富良野町の「島津」と土地の人がよんでいる地名のところに生まれました。父は両親と早く死に別れていましたので、その「島津」の吉田という家で育てられたのです。私はその「島津」と呼ばれるところが九州の鹿児島からきた北海道開拓使によって開拓されたところだと理解するようになりました。やがて、西郷隆盛を深く尊敬するようになっていきました。

家内は、山形県鶴岡市の出身です。結婚してから、私は何度となく鶴岡を訪問しました。そこで、西郷隆盛の肖像画が掲げられている致道博物館を知りました。鶴岡は以前の「庄内藩」で徳川幕府を支持していましたので、最後まで明治政府に敵対していました。戊辰戦争のとき明治政府軍と戦い、敗れたのです。ところが明治政府軍は庄内藩を制裁しませんでした。制裁とは逆に、暖かくもてなしたのです。そして明治政府を支えるために和解しました。そのように、武力制裁ではなく和解をしたのは西郷隆盛でした。

私はそのことを鶴岡の致道博物館の資料でつぶさに知り、日本人にこういう人がいたのだと感動し、西郷隆盛を尊敬するようになった次第です。しかし、西郷隆盛の和解はそれだけではありませんでした。庄内藩との和解は第1の和解です。

明治政府は徳川幕府に江戸城の開城を迫りました。その時、西郷隆盛は軍服を脱いで平服で単身、徳川幕府の幕臣勝海舟に会い和解したのです。江戸城は無血開城しました。明治という新しい国を創建するために必要なことは敵を打倒することではありませんでした。善人も悪人も罪人も国の創建に立ち上がらなければならないことを西郷隆盛は知っていたのです。庄内藩士も幕臣勝海舟も西郷隆盛の精神を身にしみて理解していたと思います。これが第2の和解です。

私はここで、第3の和解について話したいと思います。明治政府は韓国と修交をはかろうとしました。しかし、韓国から、徳川幕府と外交関係はあっても、明治政府とはにわかに修交をはかることはできないと拒絶されてしまったのです。

当時、明治政府の中に征韓論が巻き起こりました。吉田松陰の門下生だった木戸孝允、伊藤博文らが征韓論の中心人物でした。木戸孝允は新政府の参与となったあと、明治2年正月前後、国家統一の政略として征韓論を主張していました。伊藤博文は当時、木戸といつも行動をともにしていました。

今回、鹿児島をはじめて訪問し、西郷南州顕彰館を真っ先に訪問しましたが、私の思っていたことがそのまま論証されていました。

明治政府の中で西郷隆盛は征韓論を批判し遣韓論を主張したことが書かれています。
「韓国は礼儀の国なので礼儀を尽くして和解し、修交をはからなければならない」と主張した人物こそ西郷であると私は確信しています。私はこれを、「第3の和解」とよびたいと思います。

西郷なき明治政府は、伊藤博文の思うとおり富国強兵を押しすすめ、日清戦争、日露戦争にさいして「国益」のためと大義名分、先制攻撃しました。その結果、韓国を奪ったのです。1905年、韓国と保護条約を結んで外交権を剥奪し、1910年、韓国を併合しました。1905年から1945年まで日本帝国迫害時代40年をもたらしたにもかかわらず、日本は韓国を侵略していないといっています。

法的に問題ないとしています。韓国とは戦争していないし、戦後賠償についても法的に支払う必要性がないと言っています。法的に問題なければ植民地にしてもかまわないのだろうか。
日清戦争も日露戦争も、1931年に柳条湖事件と称してはじまった大東亜戦争も、日本の先制攻撃による、日本の「国益」を守るための「大義の戦争」であったとされてきたことを強調したいと思います。

最近の日本の世論は、当時の征韓論とよく似てきていると思います。
日本は北朝鮮を経済制裁すべきだと主張する人がいます。北朝鮮のミサイル基地を先制攻撃するべきだという人もいます。今こそ「国益」を守るために自衛隊を軍隊にするべきだと主張する人もいます。

1868年、明治維新以来120年間、明治・大正・昭和という三代天皇時代、日本は飛躍的に経済成長しました。そして平成時代を迎えた現代、日本は再び朝鮮半島との緊張時代を迎えています。
ここで、西郷の「第3の和解」は今なお実現されていないことを取り上げたいと思います。

明治6年(1873)年、西郷が全権大使として韓国に派遣されることによって、韓国との修交関係が確立されていたらどうでしょうか。日本は韓国と親しく交流していたはずです。日本の皇室と韓国の皇室が親戚関係となって親交していたと思います。誰が韓国の皇室を滅ぼしたのでしょうか。日清戦争も日露戦争も大東亜戦争も必然ではなかったのです。

「敬天愛人」、西郷の人生はこの言葉によって表現されています。

善人のみでなく、多くの悪人も罪人も西郷の人格にふれて共に生きたい、共に死にたいと思ったに相違ありません。
そういう和解の精神を、今、蘇らせ、私たちが現代の西郷になることが、無念!西郷の心を解放することになると思います。

話をモルドバに戻したいと思います。
モルドバは1991年ソ連崩壊と同時に独立しました。共産主義から民主主義への移行国であるモルドバには克服しなければならない問題がたくさんあります。

その一つが、朝鮮半島が南北に分断しているのと同じく、モルドバはドニエストル川を挟んで東西に分断されていることです。東側には「沿ドニエストル共和国」という国家内国家があります。その地域は、旧ソ連軍が支配しています。国連には承認されていませんが、大統領もいますし、国境警備も厳重にされています。その地下には東ヨーロッパを破壊しつくす武器、弾薬、原子爆弾が保管されていると政治家たちは言っています。

モルドバにはアメリカ大使館が設置されました。最近はプーチン大統領がロシア軍のモルドバへの駐留を強化しています。かつて、冷戦時代、北朝鮮と韓国がモスクワとワシントンの代理戦争の舞台でした。38度線付近の軍事境界線で激しく衝突していました。

最近、マスコミで取り上げられ始めているように「ミニ冷戦」の主力舞台はモルドバになってきているわけです。もし、モルドバがワシントンの影響下にはいればモスクワは思うように世界への影響力を発揮できなくなるでしょう。モルドバを制するのはワシントンなのか、モスクワなのか、マスコミもその重大さに気づき始めています。

モルドバに冷戦は必要ありません。現代の西郷となって和解を実現する使命が、実は日本にあると考えます。それは、西郷の無念をモルドバで取り返したいという理論ともいえるでしょう。
それは同時に、北朝鮮と韓国との和解、統一に貢献するべき責任が実は日本にあるのだという理論ともいうことができます。モルドバを復興支援し、友好をはかるということは、南北和解統一を支援する責任が実は日本にあるという啓蒙にもなると言いかえることができます。

明治6年(1873年)、政変によって西郷は下野しました。しかし、西郷の和解の精神を、今、蘇らせるべきです。

朝鮮半島が南北に分断した遠因は、明治政府が西郷を全権大使として韓国に派遣することを取り消したことにあります。軍隊を差し向け、日本帝国迫害時代40年という取り返しのつかない罪悪をもたらしたことが南北分断の近因となっていることを、今こそ思い起こさなければ、日本は将来孤立すると思います。韓国の中国への留学生は優に日本の10倍にも及びます。歴史教科書に1ページでも日本の戦争責任を明記して、小中学校の先生がそれを教育すれば日韓、日中の歴史問題は解決すると考えるべきです。

しかるに、日本の歴史教科書は西郷が征韓論を主張していたかのように事実を歪曲しています。西郷こそ征韓論を批判し、韓国との和解のために全権大使として自身が派遣されることに命をかけていた事実を、将来の日韓平和、日中平和につながる希望のいしずえにしたいと思います。

このように考えるとき、地の果てのように遠い名も知らないようなモルドバが、実は、私たちが歴史の中に隠されて、忘れ去られようとしていることを啓示しているわけです。つまり、最も身近に差し迫っている朝鮮半島問題に回答を与えていると思います。

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